3.11~忘れえぬ東日本大震災の記憶と教訓~

目次
東北地方に甚大な被害を及ぼした3.11
もうすぐ東日本大震災から8年が経とうとしています。
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とする超巨大地震が発生。マグニチュード9.0は日本周辺における地震では観測史上第1位。世界でもスマトラ島沖地震(2004年)に次いで、第4位の規模でした。
3.11は、特に津波による被害が甚大で、1万5000人以上に及ぶ死者のほとんどが津波による溺死とされています。津波は人や街を飲み込み、多くの人命や大切な家、そこに宿る思い出さえも奪い去っていきました。
さらに、津波が原因で、福島第一原発がメルトダウン。放射能が広範囲に飛散したことから、2019年2月時点でも18,588人が仮設住宅などでの生活を余儀なくされ、親族や知人の家に身を寄せる人は13,833人に及びます。
日本人として決して忘れてはならない3.11。
こちらの記事では、3.11の被害を筆者の体験談を交えながら振り返ることで、二度と同様の被害が起きないよう祈念したいと思います。
3.11の記憶を振り返る
3.11の記憶 地震発生直後
2011年3月11年14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生しました。地震発生の瞬間は都内で仕事をしていたのですが、間違いなく僕が経験した地震の中では最大でした。そのため最初はとっさに潜った机の下でうろたえるばかりでしたが、揺れが長かったことから次第に揺れを分析しようという意識が芽生えました。ストロークの大きな横揺れだったことをよく覚えています。
同僚がオフィスのテレビをつけようと試みましたが、すでに停電していました。やむなくみんなで1人の携帯電話(当時はまだスマホがほとんど普及していなかったのでガラケー)にかじりつき、ワンセグで情報を仕入れていました。これだけの揺れでありながら、震源が関東ではなく東北だったことが個人的には一番の衝撃でした。
ほどなくして社長から帰宅指令が出ました。僕はオフィスから徒歩1時間未満の距離に住んでいたので、いわゆる帰宅難民の経験はしていないのですが、余震に不安を覚えながら、足早に家路に着きました。部屋には物が散乱していたものの、大きな被害はありませんでした。
3.11の記憶 地震発生当夜
停電がいつ解消するかわからず、携帯の充電を無駄遣いするわけにいかない状況だったので、布団に潜りながら、ひたすら考え事をしていました。時折、携帯で情報はチェックしていたので、東北沿岸を大津波が襲ったことは知っていました。
津波の犠牲者は、昨日の時点で津波に飲み込まれることなど想像だにしなかっただろう。想像していれば助かる可能性があったのか。いや、想像していないからこそ昨日までは笑顔でいられたのか…。そんなことを取り留めもなく考え続けていました。
やがて電気が復旧しました。時間の記憶はあやふやですが、23時くらいだった気がします。
3.11の記憶 停電復旧
テレビをつけて、愕然としました。津波で人や物が根こそぎ流された集落。社会科の便覧でしか見たことのない光景でした。便覧の津波写真は白黒でしたが、当時の僕が見たのは地デジの高画質映像です。現代の日本でこんな被害が出るというのが、にわかには信じられませんでした。
規模も地域も違うので単純比較できないのは承知のうえですが、関東大震災に比べたら阪神淡路大震災の犠牲者は少ないんです。僕はそれが当たり前だったと思っていました。
つまり時代が進むごとに災害対策も進歩し、今の日本では地震で数万人単位の死者を出すことはないだろう、と。
しかし、テレビの画面はL字に字幕が表示され、「○○市○○地区 壊滅状態」といった状況を延々と流していました。
3.11の記憶 地震発生から数日後まで
当初、数千人と発表されていた犠牲者は、時間が経ち、状況が明らかになるにつれ、数がどんどん増えていきました。福島第一原発の放射能漏れについて情報が出てきたのもこの頃です。個人的には、そこまでナーバスになることはありませんでしたが…。
3.11は金曜だったので、ちょうど週末に入り、仕事のことはあまり考えませんでした。しかし、日曜に会社から連絡が入り、月曜から出勤するように言われ、少しがっかりした記憶があります。震災発生以降、ガラになく高尚なことを考えたりもしたのですが、人間の本質はそう簡単に変わらないんだな…と思わず苦笑いしてしまいました。
依然、余震活動は極めて活発だったほか、長野県や静岡県では3.11の誘発地震も発生しました。
また、3月14日には、供給できる電力が不足したことから、東京電力管内で計画停電が開始されました。
3.11の記憶 地震発生から数週間後まで
物流がマヒし、食料品や日用品など、人々の買いだめが問題になったのがこの時期です。
計画停電で信号がついていないことも、街からネオンが消えたことも、僕にとってはそれほど大きな問題には思えませんでした。ただ、テレビ越しに見る惨状にどれだけ胸を痛めようと、社会が日常を取り戻せば、自分もそれに合わせなければいけないのが一番しんどかったですね。
2011年はちょうどTwitterが流行り始めた時期であり、玉石混交の情報が発信されては拡散されていきました。
3.11の記憶 地震発生から数ヶ月後まで
数週間、数ヶ月と時間が進むうち、東京の街は徐々に平穏を取り戻しました。計画停電も3月29日には終了しています。
ただし、依然として地震活動は活発で、4月7日と4月11日にはそれぞれマグニチュード7.2、7.0の余震が発生。計8人が犠牲になりました。
3.11の記憶 地震発生から現在に至るまで
3.11から時間が経つにつれ、人々から震災の記憶は薄れ、過去の出来事となりつつあるのかもしれません。
しかし、人々が震災のことを忘れようと、今も仮設住宅に暮らす人が多くいるのはすでにお話ししたとおりです。
3.11から5年半以上経った2016年11月22日にマグニチュード7.4の余震が発生しました。
原発事故で避難指示が出された地域では、若者を中心に別の地域に移り住む傾向が続いています。
原発事故の発生した福島県を中心に、農作物の風評被害は今も続いています。
震災から丸8年が経とうとしている現在も、3.11は終わっていないのです。
二度と3.11を繰り返さないための教訓
3.11を例として挙げるまでもなく、日本に住んでいる以上、地震から逃れることはできません。
特に、首都直下型地震や南海トラフの地震はいつ起きてもおかしくないとされます。
どれだけ人間が頑張っても、地震の発生を食い止めることはできません。しかし、地震の被害を食い止めることはできるはずなんです。
地震や津波に備えて、避難経路を常日頃から確認しておくことも重要ですし、家の耐震補強も被害を軽減するのに役立ちます。
耐震補強についてはこちらの記事でも紹介しているので、被害に遭わないため、ぜひとも確認してください。
二度と3.11の悲劇を繰り返さないためにも、被害から教訓を得ることが大事なのです。
3.11で被災された方々が1日も早く平穏を取り戻せるよう、心よりお祈り申し上げます。
「リフォーム外来~お家のお医者さん~」運営チーム一同